原田マハ 『板上に咲く』
2025-01-31


妻のチヤの目から見た棟方志功を描いた作品です。

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赤城チヤは父親が青森の鉄道の保線区の枕木工事の請負人をしている家庭の次女で、兄弟は八人。
小学校卒業と同時に看護婦になると宣言し、看護婦の資格試験に合格してから、弘前市内の病院で働いていた。
もうすぐ二十歳になるという頃に、外出の百貨店で棟方と再会する。
棟方とは前年、友人に紹介され、話をしていた。
再会して三日後、棟方は新聞のゴシップ欄にチヤに公開ラブレターを出す。

棟方志功は1903年(明治36年)に青森の貧しい鍛冶屋に生まれた。
十五人兄弟の六番目、三男坊だった。
父と兄が働くのをそばで見ていたためか、煤で目を病み弱視となる。
ねぶたが彼の絵の原点で、尋常小学校でもひまさえあれば絵を描いていた。
十七歳で母が亡くなった時に、棟方は青森県の裁判所に勤務していた。
その頃、裕福な桶屋の息子の松木満史と出会い、「青光社」という油絵のグループを作る。
彼にゴッホを紹介した小野忠明と出会ったのもこの頃だった。
ある日、小野に雑誌「白樺」を見せられ、そこにあったゴッホのひまわりの絵を見て、棟方は「ワぁゴッホになる」と叫んだのだ。

チヤと棟方は結婚の約束をするが、棟方は東京、チヤは青森という暮らしが続く。
チヤは妊娠し、子供が生まれたが、それでも一緒に暮らせないと棟方はいう。
その頃の棟方は絵は全然売れず、松木満史のところに居候させてもらっていた。
いつまで経っても埒が明かないので、チヤは決心する。東京に行こうと。

上京したチヤと子供は松木夫妻の厚意で同居させてもらえた。
棟方は内職のマッチのラベル作りも含め、昼夜を問わずほぼぶっ通しで創作し、チヤは家事のいっさいを引き受けた。
このころ、棟方は油絵を描いてはいたが、木版画一本でやっていきたいと思い始めていた。

子供が二人に増えても暮らしは一向に楽にはならない。
野辺の草摘みをし、それを食べる毎日が続く。

やがて転機が訪れる。

1936年、棟方は詩人、佐藤一英が書いた「大和し美し」を前人未到の壮大な版画絵巻にして国画会に出品する。
これが「白樺」の主宰者、柳宗悦と「日本民藝運動」の仲間で陶芸家の濱田庄司の目に触れ、日本民藝館の最初の収蔵品として買い上げられる。
柳も濱田も<大和し美し>を見た瞬間、それが「民藝的なー無心の、自然の、健康の美、純然たる日本の手仕事の美をたたえている」ことを感じ取ったのだ。
柳に「面白い作家をみつけた」と聞かされた河井寛次郎はすぐさま上京し、柳邸で<大和し美し>をみて、どんでもない逸材だと直感する。
柳と濱田、河井の三人は協議して、棟方を支援することにする。

棟方、「世界のムナカタ」への一歩を踏み出す。


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[日本文学]

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