小堀鴎一郎・養老孟司 『死を受け入れること 生と死をめぐる対話』
2021-07-18


この本はそれほど生と死については語っていません。
どちらかと言えば、二人の辿った人生について語っていると言った方がいいようです。

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小堀さんと養老さんは学校は違いますが、それぞれ1938年、1937年生まれなので同級生です。

小堀さんは森鴎外の孫に当たり、鴎外の娘・杏奴の子です。
小・中学校と自由な教育をすることで有名な成城学園で学びます。
成城学園には試験も成績表もなかったそうです。(今はどうなのかしら?)
中学校三年の時に大秀才の同級生に「医者ほど立派な職業はない」と勧められたから医者になることにしたそうです。
戸山高校から東大を目指すことにしたのですが、いかんせん試験に慣れていません。そのため受験に失敗し他の私立高校に入学し、戸山高校へ編入学をすることにします。一年の時はダメで、二年の時に編入学できました。
しかし当時戸山高校は毎年100人ぐらいが東大に入るような進学校だったので、本人曰く、落ちこぼれてしまい、浪人します。
浪人二年目に東大に合格しますが、医学部に入るためにまた一年浪人したそうです。結構苦労したのですね。東大医学部にそこまでこだわったのは何故なのか?
外科医として食道癌を専門にし、東大医学部付属病院、国立国際医療研究センター病院に勤務し、定年退職後、埼玉県新座市の堀之内病院に赴任し現在に至っています。堀之内病院でのことは、映画「人生をしまう時」を観てください。

養老孟司さんは4歳の時に父親が亡くなり、医者だった母親に育てられます。
小学校四年生から虫取りに夢中になり、それからずっと続けているそうです。
カトリックの修道会であるイエズス会が運営する栄光学園中学校・高等学校で学び、ストレートで東大に入学し、医学部に進み卒業します。
彼が医学部に行ったのは、農家に生まれ、婿をとらされて家業を継ぐのが嫌で、家を飛び出し医者になった母親が、手に職を持った方がいい、医者になったほうがいいと言ったからだそうです。
でもインターン中に三回医療事故を起こしかけ、人って簡単に死ぬんだと怖く思い、医者に向いていないことを悟り、解剖学の道に進んだそうです。
虫取りも解剖も一人でやるので、自分は組織には向かないと言っています。
57歳で退官し、それ以来ハッピーだそうです。

二人で東大の思い出を語っています。
養老さんは昆虫のことを勉強したかったのですが、東大の農学部にあったのは「害虫学」で、虫を見れば害虫と思えというようなところだったそうです。
医学部には変った先生が多かったようです。
例えば、ある教官が「ここから(東大病院)紹介できるのは天国しかない」とか信じられないような傲慢な発言をしたり、東大病院の重みを過大評価して、命が軽く扱われるようなことがあったそうです。
女医も歓迎されていなく、ソ連の医者の半数が女子であるから、ソ連の医療は程度が低いという先生もいたとのこと。
東大に女子学生が少ないのは、東大が女性にあまり向かないからという面があると養老さんは言っていますが、今も変っていないのかしら?

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