重松清 『希望の地図3.11から始まる物語』
2020-10-12


2011年3月11日14時46分18秒、あなたはどこにいて、何をしていましたか。

私は職場で働いていました。
揺れがいつもより長く続いているなと思っていました。
その後、しばらくして、職場の人に東日本の方が地震で甚大な被害を受けているようだと聞き、みんなでテレビを見ました。
東京では地下鉄が止まったようですが、すぐに動くと思っていました。
しかし帰宅時間になっても地下鉄は動きません。
バスが動いていることがわかったので、近くのバス停からどのJR駅まで行けるか、そしてそのJR駅から家の近くまで行くバスが出ていないかを調べました。
バスは遅れてきましたがJR駅まで行けました。
JR駅前は混み合っていて、どのバスも大幅に遅れていました。
バスには何本か乗れず、7時頃にようやく乗れました。
運転手さんは、運賃を払わなくていいですからとにかく乗ってくださいと言っていました。
私は終点で降り、30分ぐらい歩きました。
降りた周辺は何回も家から歩いて来ていたので、迷わずにすみました。
途中で通りかかったホテルの人にトイレが使えますからどうぞと言われ、トイレをお借りしました。
夕食を作る気がしなかったので、スーパーに寄りましたが、すぐに食べられるパンもラーメンも何もありませんでした。
マンションのエレベーターはありがたいことに動いていて、電気もガスも使えました。(この時は20階以上に住んでいたので、エレベーターが動いていなかったら階段で上らなければなりませんでした)
家の中は何も被害がありませんでした。
温かい飲み物を飲み、やっとホッとしました。
夫は職場で夜を明かすことになりました。
この後の原発事故のことは、この時は思いもよりませんでした。

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2011年9月、光司は中学受験に失敗し、入学した中学校でいじめに遭い、不登校になっていました。
光司の父親はフリーライターをしている友人の田村章とひさしぶりに会って飲んだ時に、息子のことを話しました。
そうすると、田村は次の日曜日に光司を秋葉原まで連れてくるようにといいます。
東日本大震災の取材をしていて、その取材の様子を見せたいのだというのです。

それから光司は田村に連れられて、被災地を回る旅へと出ることになります。
「「希望」だけでは被災地を語れないし、「絶望」だけでも語れない」。
田村は光司に被災地の「希望」の面を見せていきます。

訪れた場所は、宮古、陸前高田、釜石、大船渡、仙台、気仙沼、南三陸、いわき、南相馬、飯舘・・・。
取材した先は、『写真救済プロジェクト』や『りんごラジオ』、石巻日日新聞、『アクアマリンふくしま』、『被災地からの声』、「希望学」プロジェクト、『スパリゾートハワイアンズ』、『浄土ヶ浜パークホテル』、『復興ダコの会』、岩手県北自動車、『ケセン語訳 新約聖書』、株式会社阿部長商店、大正大学のボランティアたち、『青空コンビニ』・・・。


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